教育現場にいると、学力低下を年々顕著に感じます。大学の先生方からも同様な声を聞くので、私の個人的思いや局所的なものではないようです。全体的な低下というより、格差が激しくなっています。世の中の人は平均を見ることはあっても、標準偏差には興味ないものです。できる学生とできない学生の差が大きく開いてきています。上位者に合わせれば下位者から不満が出て、逆に下位者に合わせれば上位者から不満が出ます。授業レベルの調整が難しいところです。
原因はコロナ禍によるオンライン化と人の繋がりの希薄さのせいかと思ってはきましたが、それだけではないようです。日本の教育行政は、長きに渡り主体的な学びを推進してきました。要は、「学びたいものを学ぶ」です。自己決定権が重視されきています。
しかし教育の根幹は、「強制(矯正)」です。主体的な学びは、私に言わせれば、教育ではないです。それは学校以外の自宅等でもできることです。studyとlearnは違います。
自分の高校時代を思い出せば、数学と物理は超厳しかったです。到底こなせない質と量の宿題が出て、日々必死でした。世に知られた歴史ある進学校にまで進んで落ちこぼれては世間に合わせる顔がないという、自己に課した重圧の中で過ごしていましてた。定期試験は地方国立大レベル、実力試験にいたっては旧帝大レベルでした。半分50点も取れれば有頂天になり、英雄でした。授業中寝れば、チョークが飛んできたものです。強制、すなわちスパルタもいいところでしたが、今となっては感謝しています。この段階の基礎学問は今でも難なくこなせています。化学の世界に入り込んだものの、物性物理と電子工学の世界に移ってきました。分野は異なりますが、この段階の基礎学問をこなしていると、大体対応できます。
世間では、移民政策に対する反対の念が騒がしています。そもそもなぜ移民かといえば、人口減少に伴う労働力不足です。そして語られることが小さいのが、学力の低下です。企業経営者の視点に立てば、学力が低下している日本人より、ハングリー精神に富む外国人の方が重宝でしょう。理念でご飯は食べられません。
人間は社会的動物ですから、これまでの人生、複数の組織やチームの一員として過ごしてきました。自ずと、最大の人間組織すなわち国家の衰亡について興味を持つようになりました。「ローマ帝国衰亡史」が代表例ですね。あの強大なローマ帝国がなぜ衰亡し、滅んだか。恥ずかしながら不勉強ではっきりとした解答を持ち合わせていませんが、教育が衰亡の要となる大きな社会基盤の一つであることは間違いありません。パンとサーカスですね。
そこで教育はどうするかの議論になると、社会科学的な面ばかりが強調されます。しかし本質は基礎学力の低下です。古来の「読み・書き・そろばん」は、技術が高度化し複雑化した現代では単純すぎるkey phraseでしょう。しかし、情報の発達で受け身になっている現代に生きる我々には耳の痛い言葉です。情報の洪水の中で溺れている我々は、果たして賢いのでしょうか。
強制という語を好きだという人は少ないでしょう。一方、対義語の自由は好まれます。学校教育制度は年々、学生さん達に優しい制度になっていきています。各種サポートも充実してきています。昔の人間から見れば、羨ましく思います。視点を変えてみれば、自己決定権が自身に移行してきています。しかし皆々が自分の人生を自分で決定できるのでしょうか。基礎学力十分や精神的に成熟した(人生2回目?)、できる学生はそれで良いでしょう。大多数は、誰かの後押し、また何かしらの制約下から、自己決定能力は自ずと生まれてくるのではないでしょうか。強制は、何かを考えるきっかけとなり得ます。権利の侵害やハラスメントとは違います。
自由は一見優しく素晴らしくあるようで、実はイバラの道です。強制を職務の一つとする教員は、嫌われるものです。ただし、明るい未来を見通した責任ある強制でなければなりません。これは、企業における品質管理に通じます。企業において品質担当の者は一目置かれますが、教員は世間においてどうなんでしょうか。
強制を忌避する先にあるものは、後悔であると思うのですが・・・。
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