法理の限界と絶対的存在

 現在の社会は、法で詰められた社会です。法で詰めることにより、皆が幸福な社会を作ろうとしています。若い人ほど、白黒をハッキリさせようとします。かくいう私もそうでした。

 しかしながら法を詰めていくと、却ってその盲点、矛盾点がきらびやかに浮かび上がってきます。所謂グレーゾーンです。つまり、法で人間の行動全てを制することはできないということです。

 法の限界線ギリギリにいる人ほど、矛盾を責めて自己に有利な状況に持ち込もうとします。それが良識(common sense)では到底歓迎されないことであっても、法を詰めた社会では罰することができないことがあります。その人を一時的に利することになったとしても、社会が利されることはありません。そう、その利は一時的にしか過ぎません。

 民主主義の世の中は、視点を変えてみれば、法を詰めた世の中です。生きやすいと思われる反面、法匪が跋扈しやすい危険性があります。古代中国、法が定められた秦の社会は瞬く間に滅びました。法三章の漢が取って代わり、長く続きました。人間社会は、個人と同様に、流転するのでしょうか。

 こう考えていくと、不文憲法を戴くイギリスの賢さに感心します。さすが七つの海を支配した大英帝国です。法で詰めることのできない世の中の隙間を、common senseで埋めていきます。不文憲法下の社会は柔軟性がある反面、法的安定性が低いのが欠点とされています。しかし後者を支えていくのが、世代から世代へと受け継がれてきたcommon senseだと思います。その一翼を担ったのが、伝統を重んじる階級制社会だと思います。もしイギリスに階級制度、つまり貴族制度がなかったら大英帝国は生まれ得たのでしょうか。

 日本の歴史を振り返ると、日本の社会は元来common senseの社会でした。聖徳太子の十七条憲法は、それまでのcommon senseをまとめたように見えます。明治以降に近代法制度が西欧社会から輸入されましたが、この長きにわたる伝統は廃れているわけではないようです。

 以前、教えるものと教えられるものは相対的と論じましたが、グレーゾーンを維持していくためには絶対的な関係性も否定できません。誰しも人間には絶対的な存在、言い換えれば頭を垂れる対象が必要です。それが師であるか、王であるか、神仏であるか、親であるかは様々です。有無を言わさないことも時には必要だということが、歳を取ってみて身に染みることがあります。

 民主主義と科学技術の発展は、自ずと法を詰めた社会をもたらします。しかしそれは、本当に幸せな社会なのでしょうか。

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