以下の事項を研究・教育活動の核としています。
〇、率先垂範
「先ず隗より始めよ」という故事があります。物事を始めるとき、自分の考え通りの行動を他人に求めるのであれば、まず自分から率先して着手しなければなりません。
自分ができてないのに、他人に偉そうにそれを指示する人は、ただの怠惰な人です。
己の全ての活動において、率先垂範を旨としています。
一、研究と教育は車の両輪
論語の一節に、「子曰、学而不思則罔。思而不学則」、すなわち「子曰はく、「学びて思はざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆ふし。」という言があります。
これを基に、研究と教育は車の両輪ということを信条としています。
教育のみで研究を顧みない人は、傲慢になります。教育の対象は通常、自分より若く、まだ学が劣っていて、弱い人です。研究というものは、神さまとの真剣勝負です。自分がどんなに考え、やり抜いたとしても、実験事実という神さまの回答の前には無力です。そんな真剣勝負を避けて、弱い人に対して、「どうだ俺は偉いだろう」という人は、ただの卑怯な人です。
研究のみで教育を顧みない人もまた、傲慢になります。研究はある面では、神さまとのゲームです。己が世界の小さな存在であることを棚に上げて、神さまとのゲームの出来だけをもって自身の評価と信じるのは、ただの自己中です。世の中は、成せる人と成せない人とのGive & Takeで成り立っています。成せる人もある面では成せない人であり、成せない人もある面では成せる人です。己が研究に秀でているのならば、その成果を教育へと転換することで、世の中のGive & Takeに資するべきと思います。
教育と研究は、車の両輪です。未来(研究)を見据えて過去(教育)を見つめ、過去に学び未来を創っていきます。温故知新です。
二、研究を通じた人格の陶冶
研究者は、「検察・弁護士・裁判官の一人三役」が必要です。ひたすら客観に徹して実験を行い、考え、判断します。得られた実験データに対して、それは神さまが何を自分に伝えようとしているのかを必死に考えます。Aという考察に対して、Bという異なる考察を自分で提示し、闘わせ、判断します。しかし神さまは、正解を決して教えてはくれません。回答と正解は違います。研究者は皆、正解に近いと思われることを必死に考えていきます。実験結果はスタートです。決してゴールではありません。スタート後、ひたすら考えることで、見えなかったものが見えてきます。
人は、恐れるものがないと驕ります。人は、恐れを抱くことでこそ身を律することができる弱い存在です。神さまに対する恐れを抱きつつ、自らを律していきます。
三、教うるは学ぶの半ば
人に教えるするためには、教わる側の10倍勉強しておかなければなりません。人を諭すためには、諭される側の10倍勉強しておかなければなりません。勉強と愛情を兼ね備えていなくては、叱ることはできません。「授業が分からない」ということは、教わる側の責任が半分、教える側の責任が半分です。対等です。
教育のために10倍勉強するのは、今ある畑を耕し直すことです。記憶の中の断片と断片が繋がります。教育とは実は、自分自身に対するものです。教える人から教わり、己を向上させていきます。
※参考資料: 国立高等専門学校機構 情報公開(就業規則など)
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