有名なことわざに、「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば只の人」というものがあります。この意味を、高専教育という観点から考えてみます。
高専での卒業研究は大学と違って、授業科目の一つとされています。つまり、時間制限があります。高専の教務管理システムは出欠に厳しいので、大学のような研究室での自由な研究スタイルは馴染みにくいこともあるでしょう。しかしながら研究というものは当然のことながら、時間制限下で行われるものではないので、科目の一つという捉え方は必然的に無理を生じます。
高専の当初の設立理念である「高度成長期の中級技術者の育成」という観点に立ってみれば、卒業研究を授業の一つとする方針は理に叶っていると思います。研究を深く追求するわけではないけれど、かといってしないわけでもない。研究とはどういうものかを体験するだけだったら、目的は達せられると思います。大学では、学士号を参加賞、修士号を努力賞、そして博士号で一人前という考えがあります。本科卒となる学士(専攻科卒)以前の准学士だったら、体験賞になってしまうのでしょうか。
けれども現在においては、高専への社会的要望はより高度化しています。そもそも高度成長なるものはとうの昔に終焉しましたから、今はより深い専門性と広範な知識、そして創造性が高専にも求められています。加えて保護者・学生側としても進学熱が高くなっていることから、もはや大学との差別化、棲み分けが曖昧になっています。
厳しい教務管理は、一定のレベルを育成するのには合理的なシステムです。これはこれで優れたシステムと思います。大学は自由過ぎる面もありますから。しかしながらその先に行くためには、じっくり考える時間がどうしても必要です。じっくり学問を深める時間もさることながら、じっくり人生を考えることも必要です。正に高等教育です。高等教育と教務管理との両立を図るには、一体どのようにしたら良いのでしょうか。
それは、研究活動に対する意識を変えることかなと思います。「研究活動時間は時間割に拘束されない」という意識が研究室で物事を考える時間をもたらし、それが真の高等教育に繋がるのではないかと思います。ただ、言うは易しです。それをどのように学生さん達に意識付けし、導いていくかは至難の業かなと思います。
せっかく専門教育を大学より早く進めているのですから、研究活動で磨きをかければ良いと思います。そうでなければ、ただカリキュラム的に早いだけで、そのメリットは早晩失われるだけです。しんどかった日々は一体何だったのかになってしまいます。
冒頭の言葉は、中等教育の枠組みの中だけで育っていった人のことを指すでしょう。年齢が上がり、学齢が上がってくれば、自身の中に自ら考えたいという欲求が自然と生まれ、また社会もそれを求めてきます。自ら考えることは、強制されるものではありません。ただ講義を聴くだけでは、考えは生まれてきません。
学生さん達はせっかく優秀なポテンシャルをもって高専の門を叩いたのですから、只の人にならぬよう如何にして導いていくかを考える日々です。
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