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平和な一日と就職担当

 本日は午前にショッピングに行ってきました。帰って来て、遅い昼ご飯にお持ち帰りのSUBWAYを食べていると、サイレンが鳴りました。

 「どこかで野球か?」と思ったら、本日は3/11でした。あれから12年です。早いものです。

 当時の光景は、今でも脳裏に焼き付いています。午前中のポカポカ陽気が一転して、終わらない揺れが続きました。そして吹雪となりました。よく生き残れたものだと。

 12年後の今、高専准教授で次年度就職担当として、学生さん達と日々やり取りをしています。忙しいですが、前途ある学生さん達と過ごせるのは楽しいものです。平和な一日です。

 高専の就活は専願制です。大学と違って、併行就活は認めていません。そのため、まだ若い学生さん達は目下、就職先の選択に悩んでいます。一応、5年間の企業経験があるので、それを元にできる限りのアドバイスをしています。

 企業経験は、この立場になってとても役に立ちます。研究者としてはリスクある選択でしたが、今となってはとても有意義な人生を過ごせたと、神さまと皆々様に感謝しています。

 今年度初めての担任で、その締めくくりとしての就活指導です。幸い、学生さん達は揃って優秀ですので、就職は全く心配していません。どの学生も、自信を持って企業の皆様に薦められます。むしろ、私の事務手続きミスを恐れます。

 さて、SUBWAYを食べ終わりました。本日は、たまの休みでのんびりしましょう。

修業年限と教養

 人生長くやっていると、後悔することはたくさんあります。中でも最も選択を誤ったなと思うのは、中学受験をしなかったことです。

 中学受験をする先というのは、まず中高一貫進学校ですね。高校受験からそんな進学校に行き、それなりに有名な大学に入って、今は准教授という肩書きを得たのですから、中学受験をしていたとしてもゴールは結局同じだったかもしれません。

 しかし後悔するのはそういう受験的なことではなくて、教養を積む時間を失ったということです。大学受験からまだ程遠い中学3年間で、高校受験に囚われずに教養を積んだり(たとえば読書)、はたまたスポーツに勤しむ時間を失いました。これらの点では、今でも引け目を感じます。

 中学受験をしなかったのは、一人みんなと別れるのが寂しかったからというセンチメンタルな理由でした。けど小学校の卒業を迎えて、親しかった友人達が進学していくのを見て、とても後悔しました。

 さてさて、本題はそんな昔話ではありません。高等教育を目指す者にとって、学校の選択は修業年限が長いものが望ましいと思います。中高一貫校なら前半の3年間、高専なら2年間、大学も2年間程度は、進学や就職活動といった世俗なことに囚われず、好きなことやりたいことをじっくり深く掘り下げることができます。そんなゆったりとした時間、冒険であり修養である時間が、若い頃には絶対に必要です。テストは必要悪でしかありません。

 高専の初めの2年間はほぼ一般科の範疇ですので、専門課程所属の私にとってはほぼ縁がありません。高専のカリキュラムは厳しいのですが、学生の皆さんには教養を積んで欲しいなと思います。それだけの学力はあるので。専攻科も、研究半分教養半分といけば良いのですがね。専門バカは、やはりバカです。

 大学&大学院は結局10年間いました。けれど、教養を積むという点では不十分だったと思います。もっともそれは環境のせいではなくて、私の無知のせいだったのですが。無知はどこから来たのか? やはり中学の無為な時間だよなと。

 そんな訳でこんな歳になっても、教養、すなわち真の知を追い求めます。

たかが同窓会

 同窓会というものが日本では充実しています。旧交を温めることですね。たとえば、年末年始などの一斉にまとまった長期休みには、課外活動などにおいてOB/OGが訪問してきたり、またそのための会を開くことがあります。

 でも、注意すべき点があります。組織をダメにする最速切符は、OB/OGでもあるということです。ほとんどの人は、他人特に若い人達に対して自分の過去を美化するものです。それが度を過ぎて、現在の体制にちょっかいを出してくる。正当な資格や現行職務があれば別ですが、大体は「過去に在籍していたから」という理由だけです。現行職務といっても、常勤ではないので、過去に比較して権限は大幅に限られます。けど、昔を今に持ってきたがるんですよね。

 大体そんな人は、現在の自分と置かれた境遇に満足できていない人です。満足できないから、美化した過去に逃げるのですね。人間の心の弱さです。

 かくいう私も、若い頃はそんなことがありました。しかし今は天職を得て、過去はどうでも良いです。強い心がなければ、自分の名前で商売できません。

 長く生きていれば、複数の同窓会に入ることになります。今の人達にはその人達の考えがあるでしょうから、遠くから見るだけです。それよりも今ですよ、今。

 もっとも、学会活動自体が同窓会の側面を含んでもいますけどね。ただし皆さん、今を持っている人達ばかりです。

 さあ、春は学会のメインシーズンです。企業生活とコロナでだいぶご無沙汰していましたが、鷹林ここに有りといきますか。生きてますよと。

都度都度、しあわせ

 これまでの人生を振り返ってみると、都度都度イジワルをされてきました。こちらは何もしていないのに、何故かされる。

 こちらは普通に話しているのに、いきなり発狂して怒鳴り散らすという人にも複数出会いました。目が点になるとは、正にこのことでした。後でどこをどう振り返っても、発狂される理由が分かりません。そんな経験をしたので、持論を振りかざすのではなく、まずは相手の話をよく聞くように努めています。人それぞれに考えがあり、そこから新たに学び得ることもあります。

 学歴のやっかみというのも割とありました。私はそこそこ学歴が良い方のようです。「~ようです」というのは、周囲に同じような人達がたくさんいる環境で育ってきましたので、特に何も感じていませんでした。私にとって学歴とは、人生を豊かにするための手段の一つであり、若い頃の通過点の一つでしかありません。敢えて誇りを持つならば、博士号を持っていることであり、それ以外は「○△の生まれと育ちです」的なふるさと紹介のレベルでしかありません。現在そして未来において成果を出せるか、世の中に価値を提供できるか否かが大事なのです。

 しかし、一般世間ではそうではありませんでした。出身大学/高専を命の次に大切にしている人も世の中にいるのだということを学びました。私にとってはどうでもいいことであっても、そうでない人もいるようです。

 そんなイジワルをされて人生とても困ったことは、一度や二度ではありません。けれども、その都度誰かが助けてくれました。おかげさまで、履歴書は表面的に問題なく彩られています。

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正しい理屈と正しい結果

 正しい理屈と正しい結果を考えてみます。アインシュタインは、「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」と述べました。しかしここでは理科的なことではなく、人について考えてみます。

 教育の最終目標は言うまでもなく、人を育み活かすことです。時に厳しく、特に優しく。机上で決めた決まり事で万事うまく行くとは限りません。

 成績の善し悪しだけで人の成長を評価することはできません。一方、成績評価がなくては、大きなチームほどまとまりません。皮肉なものです。人がチームを作れば、1番から最下位までランキングされます。成績至上主義では、最下位はすべての権利を奪われます。そして自ずとチームは崩れていきます。競争原理ですべてがまとまるならば、世の中は平和です。

 正しい理屈は、いくらでも簡単に創ることができます。単純な論理を単純に積み重ねるだけで良いからです。ただし、それが正しい結果を生むとは限りません。その正しい理屈を考え出した人ならともかく、表層的な理解が正しい結果を導く可能性は低くなります。正しさは、時と共に蝕まれていきます。

 無論、評価は厳正に行わなければなりません。物事の核を疎かにしては、基本を疎かにしては、そもそも物事自体が成立しません。しかしながらそれ以後の運用は、その人達の輪の中に入り、交わっていく中で判断し、舵を切ります。

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やりたいことが溢れ出る

 この10月末で研究室も3年目3期生を迎えて、本格的に立ち上がってきました。

 やりたい研究、やらねばならない研究が積もり積もっています。とても手が足りません。多くの方々から有り難くリクエストを頂いておりますが、回答に四苦八苦です。

 毎日研究室で何かしていますが、とても充実しています。

 この歳になって、仕事ができるという実感が湧いてきました。逆に言うと、今まではただ勢いでやっていた感じでした。

 そんな実感が持てるようになったのは、若い頃からがむしゃらにチャレンジしていったからじゃないかと思います。無理をして、恥ずかしい思いも、嫌な思いも、辛い思いもたくさんしてきました。でも今になって、それら経験が実ってきたのかと思います。

 若い頃にいたスマートだった人達は、どこかに行ってしまいました。

 やりたいことが降り積もり、人の縁も多分に得て、研究室を運営できるようになりました。人生、何とかなるものです。

 しかしまあ、人生は教科書通りに理路整然とは行かないものですね。やり直したいこと、後悔することはたくさんあるのですが、懸命にもがいて、気がついたら一つの頂に立っていたという感じです。

 でも、まだ向こうにさらに高い山があるんですけどね。

 

卒業単位数と選択科目

 どこの大学・高専もそうだと思いますが、卒業単位数すなわち卒業に必要な単位数に対して、開講科目は多めに設定されています。そしてその余分な科目は選択科目となっており、取らなくてもほぼ卒業には影響しなくなっています。

 卒業単位数獲得の目処が立てば、選択科目を受けずに時間割を楽にして、最後の学生生活を楽しむという人が割と出てきます。楽しむといっても、バイトしまくったり、ゆっくり寝たりが多いようですが。まあ、個人の自由ですけどね。

 私は、科目の選択は「個人責任」という心づもりでいます。取っても取らなくても個人の自由で、それに伴う以後の責任さえ自分で取ってくれれば、それで構いません。就職/進学したら、「その科目を取っていないことが問題になった・・・」なーんてことがあっても、一切の自己責任でお願いしますよです。そのときになって押しかけてこられても迷惑千万で、後輩達への教育の邪魔でしかありません。貴君中心に地球は回っていません。「権利の行使には、責任が伴います」ってことさえ肝に銘じておいてくれたらOK。

 個人的には、高専は若い内から専門に特化しているので、特に他分野の選択開講科目は取って欲しいと思うところです。他校はよく知りませんが、有明高専は専門コースにいても結構他分野が学べますので。

 専門に特化しているので高専卒は即戦力にはなるでしょうが、「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」とも言います。若い内は広く学び、世の中の広さを知ることが大事だと思います。Liberal Artsという言葉にあるように、欧米では専門分化を日本よりも大分遅らせますね。20代30代の責任が比較的問われない若い内は結構ですが、それ以上の年齢になり、判断・決断・責任が問われる立場になると、広く学んでいるか否か、すなわち教養があるかないかが、かなり効いてきます。決断は一瞬のことですが、それに至るまでには考えに考える必要があります。知識・教養がなくては、そもそも考えることができません。

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高周波伝送と図書館と知的視野

 今年度は4E担任だけではなく、図書館運営室室員も仰せつかっています。有明高専図書館では毎年新しい本を入れるのですが、今年はその選定の担当となりました。

 「学生さん達にとって何が良いかな~」と、Amazonなどをザッピングしながら適切な本を探していると、David M. Pozarの「Microwave Engineering」の邦訳が出ていることを知りました。ちょっと高かったですが、早速手に入れました。原書と邦訳をセットで揃えるのが好きなものでして。論文等を執筆する際には、英語が基本言語ですので原書が必要なのですけれど、日常読むのはやはり日本語の方が早いです。

原書と邦訳、両者揃い踏みです。

 会社員時代、業務の都合で高周波伝送とそのプラズマについて勉強しました。全く未知の分野でしたので、この本と中島 将光先生の「マイクロ波工学」で必死に勉強しました。自分で本を読むだけでは分かりませんので、実務的なことは同僚だった大井 克己さんに都度教えて頂き、学問的なことは橘 邦英先生(京都大学名誉教授)の知遇を得て、進めていくことができました。ただただ、運が良かったです。

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老害防止と巨人の肩の上

 研究室は目下絶賛立ち上げ中であり、かつ息の長い研究業界ではありますが、もう若手も卒業したので、老害なるものについて考えていかなければならない年頃なりました。嗚呼、無駄に時を過ごしたのかなぁ・・・。

 老害で一番嫌われることとしては、「過去を美化する」というのがあります。「俺たちの頃は・・・」というやつですね。当人はわざと美化することはないと思いますが、自然にそうなるのだと思います。それは、

「答えを知っているから」

です。答えが過去を無意識的に修正します。歴史の結果から歴史の流れを批判、断罪するのと同じです。答えを知っているから、ああだこうだと言う。一面では正しいようですが、ではアナタはアナタが言う道程を渡って来られたのですかと。誰しももがくものです。平坦な道は理想的かつ理論的かもしれません。ただし、理想や理論が正しい結果を産むとは限りません。時は移り、所は変われど、人類の営みには何ら変わることはないのです。

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高校野球と世代は変わる

 普段、プロ野球とは別に、高校野球にはさほど興味はないのですが、先日、番狂わせでニュースが騒がしかったので、ちょっと見てみました。

 メンバーを見てみると、郷里でしか見かけない特徴的な苗字の選手がいました。全国を巡ってきた人生なので、わかります。「へ~」と最初は眺めていましたが、よく見てみると、違う県の代表だけど出身中学校が私と同じでした。「んむむむむ? それでこの苗字とは?」

 母親に確認してみると、学年が一つ上のご近所さんの息子さんだそうです。コロナでずっと帰省してなかったので、郷里の情報に疎かったです。

 この業界では、落語界ほどではないにしろ、私はまだ若手として扱われるようなのですが、世間では世代が変わっているんですね~。

 いや~、なんだかな~。

言葉遣い

 社会で働いている人なら至極当然のことですが、言葉遣いは気をつけます。年長者や地位が上の人だけではなく、下の人にもです。だって明日、下だった人が上に来るかもしれないのですからね。今日の学生さんは、明日の上司かもしれません。

 ただ一般に、学校という文化圏の中では、何故かそれが廃れています。

 自分の人生を振り返ると、中学校から大学までがそうでした。中学校に入ったら、やたら教員の言葉遣いが荒くなったのを不思議に思ったものです。

 そんな環境を受け入れて成長して、大学院に入りました。そうすると、周囲は一変して丁寧な言葉遣いをされるようになりました。大学院生ともなりますと、学生とはいっても一角の研究者として認められたからです。逆に言うと、自身の振る舞いは自身で責任を持たねばならない立場になったという事でした。

 ちょっと話が横道にずれました。言葉遣いというものは、相手をどう思うかではなく、自身が周りにどう見られるかということが重要です。敬語一般にそうですね。言葉遣いは結局、自分を守るためのものです。言葉遣いが荒い人と仲良くなりたい人は、少数派だと思います。人が近寄らない人は、得るものが得られませんね。

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難しい学問

 申すまでもなく、教員は学問を教授するのが仕事です。わかりやすく教授するのは、腕の見せ所です。しかし高等教育ともなると、内容も高度になり、一筋縄ではいきません。誰しも暗中模索、試行錯誤しています。

 学校は、時間をかけてその難しい学問を修めるところです。難しさを克服するには、自分で乗り越えなければならない壁が存在します。教員はその幾分かのサポートはできますが、最後は自身の力です。

 「私が分からないのは、教えるお前が悪い」という人達がいます。私が歳を取ったのか、そんな人達が昨今多い気がします。しかしその人達から、自分の努力を聞くことはありません。

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