古文漢文ルーティーン

 この学年末の時期は、学生さん達の卒業研究関係の論文やレポートを読みます。若い学生さん達は、少なくとも高専生活では、自分でまとまった論理的文章を書く機会があまりないので、読んでいて日本語としては引っかかる表現が目に留まります。文法的におかしいわけではないですけど、読んでいてしっくり来ないです。論文は論理性を重視しますから、ココは何か論理がずれているなーと感じるところもあります。

 かくいう私も、現役で論理的文章を書く人です。昔、広島大学で研究員をしていたときに、ボスだった高萩 隆行先生から、「文章は読んでいてツルツル入ってくるものでなければならない」などと言われました。当時は博士として駆け出しだったので、研究者として生き残るために、必死に研究して論文を書いていました。論文を世の中に認めてもらうには、研究内容もさることながら、きちんとした文章が書けることも大切です。

 そんな文章を書いていては、時折ふと立ち止まって、有名な古典の一節を暗唱します。中学か高校時代に暗記したものです。確か授業で暗記を求められたような記憶がありますが、よく覚えていません。暗記しているものとしては、

・平家物語の冒頭:

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。」

・奥の細道の冒頭:

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、」

・方丈記の冒頭:

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」

・枕草子の冒頭:

「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。」

・論語の冒頭(学而第一):

「子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍みず、また君子ならずや。」

・春望の冒頭:

「國破れて山河在り。城春にして草木深し。時に感じて花にも涙を濺ぎ。別れを恨んで鳥にも心を驚かす。」

といったところです。

 何故これらの文章を暗唱するのかというと、これらは皆歴史に残る名文だからです。主張の内容がどうこうではなく、詠んでみると、リズムに乗って文章が自然と続いてきます。無駄な接続詞もなく、自然と続きます。正に「ツルツル」です。

 論理的文章を書いていると、どうしても「しかし」や「ただし」などの接続詞が無駄に多くなってしまい、後で読み返すとぎこちないです。このように文章を書いている時折に古文・漢文の名文を暗唱するというルーティーンを入れることにより、文章を仕上げることができます。

 広島大学時代4年間の集大成がこれですね。東北大学に異動した後に出版したので、所属は異なっていますけど。

 学生さん達のを添削する際にも、「まずは自分で声を出して読み返してみなさい」と彼らに言います。

 高校時代、古文・漢文の授業の意義がよく分かりませんでした。しかしこの歳になって思い返してみると、もし習っていなかったら、名文に触れる機会を永久に失っていたかもしれません。何と恐ろしや・・・。

 下手な色気を出すよりも、古典に学べです。

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