2年生シンガポール研修旅行(Special Version)

 一日遡って2日目の話の続きです。2日目は先に述べたマリーナ・バラージとシンガボール植物園の他に、シンガポール国立博物館にも行きました。そこではシンガボールの歴史について学びました。

 シンガポールが有史に現れてくるのは14世紀と遅く、サンスクリット語で「ライオンの町」を意味する「シンガプーラ(Singapura)」という名称が出てきます。その英語読みがシンガポールとなっています。Lion Cityですね。

 それから時を得ず大航海時代に至って、ポルトガルが侵攻してきました。1613年にポルトガルによりシンガポールの街は焼き払われて、以後200年間忘れ去られることになりました。ポルトガルはその後、後進のオランダによって放逐されました。

 1819年にイギリス東インド会社のイギリス人であるトーマス・ラッフルズがシンガポールに上陸しました。間もなくシンガポールはイギリスの植民地となりました。彼は自由港政策を推し進めて、現在に至るシンガポールの礎が作られました。ラッフルズは、シンガポール人が忘れてはならない人物の一人です。その後中国南部や南インドからの移民が進み、現在の多民族国家の原型となりました。

 イギリスは、中国と悪名高いアヘン貿易をシンガポールを中継地点として進めていきました。こうしてシンガポール、特にその中国系住民は経済的に豊かになっていきました。これが後々、先住民であるマレー系住民との軋轢を生んでいきます。

 忘れてはならないのが、第二次世界大戦です。1942年、マレーの虎山下奉文中将率いる日本軍は資源確保のため、マレー半島を南下してシンガポールに軍を進めました。マレー沖海戦における、当時世界最強であったはずのイギリス軍艦プリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)への航空攻撃と撃沈が、近代海上航空戦の始まりでした。それは真珠湾攻撃ミッドウェー海戦へと影響を及ぼしていきました。白人優越を打ち砕いたマレー沖海戦は、脱植民地化・反植民地主義の萌芽ともなりました。

 第二次世界大戦後、シンガポールは再びイギリスの植民地に戻りました。戦時中の日本軍の支配下では華僑への厳しい取り締まりという負の側面があったものの、白人優越の思想を覆した日本軍の活躍は現地の人々に独立の気概を与えました。歴史の難しいところです。博物館展示でも、戦時中の日本軍の占領政策と戦後の植民地からの独立を繋ぐ線が弱いように思えました。

 結局1963年にシンガポールは、マラヤ連邦と共に(旧)マレーシアを結成しました。しかしながら、前述の移民による中国系住民が多いシンガポールは、マレー人を優遇したい(現)マレーシアと協調できず、1965年にはシンガポールはマレーシアから追放されてしまいます。

 展示では、初代首相となるリー・クアンユー(李光耀)涙の会見のビデオが流されていました。リー・クアンユーは、先のラッフルズと並ぶシンガポールの偉人です。シンガポールは好きで独立したわけではないんですね。資源のない都市国家ですから。ただし、マレーシアを一方的に責めることもできません。正にイギリスの分割統治の負の側面です。

 リー・クアンユーが先の涙の後の独立会見で言った言葉「We will set the example」は、中国故事に言う「隗より始めよ」の意ですね(※会見のフルバージョンは7分ですが、国立博物館展示しかないようです)。資源のないシンガポールは、リー・クアンユー指導の下、強権的な半独裁的民主主義で世界有数の発展を遂げました。半独裁的と言えば聞こえが悪いですが、国家の形成段階に応じて、生き延びるためには国民のベクトルを合わせなければならないときもあります。大久保利通率いる明治維新政府や戦後日本の護送船団方式も似たようなものです。後から原理主義的な批判はいくらでもできます。

 一方のマレーシアも遅れながら、マハティールルックイースト政策(Look East Policy)で日本を見習った発展を目指しました。

 以上のように、シンガポールやマレーシアの歴史は日本と強く結びついています。俯瞰してみると、すごく興味深いものですね。

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