教育における哲学とゲーム

 昨今は、授業に関する管理が厳しくなっています。昔、特に大学の授業はいい加減なものが多かったです・・・よね? 授業内容とは全然違う話を聞かされたりしたものです。おいおい・・・と。

 まあこれは極端な例ではありますが、高等教育の授業というものは、評価はさておき、何らかの講師の哲学が入っているものです。なぜなら、高等教育の内容をすべてに渡って限られた授業時間内で終わらせるのは、実質的に不可能だからです。

 先の最終講義でも、講義や著書に哲学が入っているかを問われていました。

 例えば化学分野の有機化学。必修ですね。その世界から遠くに離れたところへ来た今でも、教科書は手元にあります。当時の教科書はモリソン・ボイド。これ全部を1年間で授業しきるのは不可能ですから、行き着くところは、「覚えておけ」でした。何章に何が書いているかまで覚えたものです。今でも記憶にあります。

この厚さを1年間で覚えました。今でも居室の本棚に置いています。

 なお化学の教科書は外国の訳書が主で、外国の教科書は著者名で区別します。タイトルは物理化学や有機化学など、ストレートな題名です。対して日本の教科書は、タイトルを工夫して区別します。例えば、“新”物理化学などと。師匠の師匠である坪村 宏先生の著で、日本人が書いた数少ない教科書の一つですね。

 閑話休題。冒頭に掲げたように、授業カリキュラムとか筆記試験問題の類似性とか厳しく管理されてきています。冒頭の例を踏まえると、これは一見正しいことのように思えます。一見ね。

 そんな但し書きを付けるのは、学問が高度になってくると、筆記試験というスタイルが合わなくなってくるからです。筆記試験という、限られた時間に限られた紙面に記述する作業では、出せる問題が限られてきます。例えば、量子力学におけるシュレディンガー方程式の導出と各軌道への展開など、困難ですよね。電気磁気学の表皮効果や電磁波の導出は、結局同じような出題内容になります。問題の類似性への対応として分散化に拘ると、自ずと時間内に解ける表層的な内容に行き着きます。

 でもそれって、学びの本質ですか? ゲームじゃないんだから。管理が行き過ぎると、却って知性の劣化を招くでしょう。

 担当している電気磁気学では、今回もボロクソな授業評価アンケート結果です。仕事とはいえ、教育は強制であり、その講師は嫌われてナンボとはいえねぇ。しかし、上述の表皮効果や電磁波の導出は、電気電子工学を専攻する学生なら必須の常識であるという、自身の哲学の下で行っています。教えられなかった不幸ほどの不幸は世の中にないと思うからです。

 難しい? 難しいから時間をかけて学ぶんでしょう?

 授業は、初回に学ぶべき内容とその意義、そして読んでおくべき書籍を指示したら、おしまい♡・・・というのは極端かもしれませんが、世間で言われている優秀な学生が集まる有名大学ではそうだと思います。私もできればそうしたいけど、そうもいかないですね。上述の有機化学なんて、筆記試験過ぎたらおしまい♡というのでは、身に付かなかったでしょう。

 分かる分からないの根本は、結局、自己管理に行き着くんですよねー。

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