衆愚政治とは、民主政治の忌むべき陥穽として知られています。陥穽は「完成」と同音ですので、行き着く先とも皮肉に捉えることもできます。
遠い未来、Reinhard von Lohengrammは、「民主共和制とは、人民が自由意志によって自分たちの制度と精神をおとしめる政体のことか」と厳しく批判するようです。
衆愚の一つの事例として、「事なかれ主義による分散」があると思います。限りある資産資源を、皆に良い顔をしようと公平に分散させる。一見平等で素晴らしいことのように見えますが、そこにvisionはありません。銘々のベクトルがアサッテの方角を向き、合成ベクトルはゼロ、結局何の成果も得られずただの無駄遣いに終わります。そう、掘り下げていった先にあるのは、無責任なエゴイズムです。
満遍に花を咲かせたとしても、手入れなく遠からず枯れさせては意味がありません。
反対の施策として、選択と集中があります。visionには選択と集中が欠かせません。しかしこの決断は、必然的に対立を生みます。殆どの場合の民主制は代議制ですから、支持者の意向は重要です。しかし過剰に誰かの顔色を伺うことは、衆愚や院政を招くことになります。
一代で功を成した人は、外野からワンマン社長と非難されることがあります。しかし、もし当人がいなかったとしたら、社員達の豊かな暮らし、彼らが生み出してきた豊かな社会はあったでのしょうか。
非難は誰にでもできます。しかし、非難をする者が責任を持って皆を幸せに導いた事例はどれだけあるのでしょうか。
一方でYang Wen-liは、「最悪の民主政治でも最良の専制政治にまさる」と述べるようです。「人民を害する権利は、人民自身にしかない」という理由です。
「対立を超えた先の発展を導くリーダーシップを民主政治の土壌は育むことができるか」というのが、民主政治の最重要課題です。というより、どんな政治形態でも結局、「希有なリーダーを見出し、そして支えていく」の決定プロセスの違いに帰するのかと思います。
衆愚は縁遠いものではなく、身近にあるものかと思います。
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