現代の初等教育では、「話し合い」や「民主主義」ということがほぼほぼ絶対善として教えられてきています。そして、これらに真っ向から公然と異を唱える人はまずいないでしょう。しかしこれらは果たして、絶対善なのでしょうか。そもそも世の中に、絶対善というものはあるのでしょうか。
危ない話ではありませんよー。
と言いますのも、ビジネスの世界に入ると、話し合いでは話がつかない場合がほとんどです。ビジネスは怜悧な生存競争であり、そもそも競争から離れて生きていくことはできません。満足する食料も金銭も、無限に天から降っては来ません。
話し合いとは本質的に時間のかかるものですから、その時間を費やしているうちに負けて失ってしまいます。必要なのは、「決断できる」ことです。それが的確なものならばbestですが、的確じゃない場合でもbetterです。後者では、例えば後にやはり改善しようなどと、ベクトルの方向は違っても有限で何かしら物事が動きますから。ゼロベクトルでは決して勝てません。「勝てなくてもゼロなら良い」という考えは、身勝手な安全保障の思い込みであり、世の中の結果はまずもってプラスかマイナスです。無限の長さの数直線上に、0.00000・・・はたった一点しかありませんよ。ただし、「様子を見る」という行為は決して何もしない消極性ではなく、能動的な戦略的価値判断の一つです。決断全てが果断である必要はありません。
話し合いをしようとする態度は、個人の美徳の観点からは尊敬すべきものです。しかしながらそれを集団に適用すると、皮肉にも敗北をもたらす場合があります。すなわち、「合成の誤謬」です。
人生は、選択行為の不断の連続から構成されています。的確な判断をして勝ったり、不適切な判断をして負けたりと。何もしないのはダメージゼロではなく、「失った時間への後悔」という無限に続く最大の損失、最大の敗北になります。
与えられた状況が、自分にとって最適ということはまずありません。何かしら、大なり小なりの困難があります。しかし困難を真正面から真正直に捉えて狼狽えるのではなく、むしろ異なった視点から、困難を利用してその先に自分に有利な、勝てる環境を創り出せるかを考えるべきです。
ミクロな視点では美徳でも、マクロな視点で欠点になり得るという、合成の誤謬。個人から集団への過程での変質。しかしもっと大きな巨大なマクロ、例えば国家の場合、再度マクロな美徳に戻るべきかもしれません。古人曰く、民主主義は最悪の政治形態でも、今のところそれよりも優れた形態はないようですから。この再度の変質については、浅学非才、直ちに説明できません。
もっと勉強し、様子を見ましょう。学ぶとは、人生の可能性(選択肢)を増やし、よりよい決断ができるようにし、よりよい人生を自他共に送れるようにするための行為です。
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