正しい理屈と正しい結果

 正しい理屈と正しい結果を考えてみます。アインシュタインは、「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」と述べました。しかしここでは理科的なことではなく、人について考えてみます。

 教育の最終目標は言うまでもなく、人を育み活かすことです。時に厳しく、特に優しく。机上で決めた決まり事で万事うまく行くとは限りません。

 成績の善し悪しだけで人の成長を評価することはできません。一方、成績評価がなくては、大きなチームほどまとまりません。皮肉なものです。人がチームを作れば、1番から最下位までランキングされます。成績至上主義では、最下位はすべての権利を奪われます。そして自ずとチームは崩れていきます。競争原理ですべてがまとまるならば、世の中は平和です。

 正しい理屈は、いくらでも簡単に創ることができます。単純な論理を単純に積み重ねるだけで良いからです。ただし、それが正しい結果を生むとは限りません。その正しい理屈を考え出した人ならともかく、表層的な理解が正しい結果を導く可能性は低くなります。正しさは、時と共に蝕まれていきます。

 無論、評価は厳正に行わなければなりません。物事の核を疎かにしては、基本を疎かにしては、そもそも物事自体が成立しません。しかしながらそれ以後の運用は、その人達の輪の中に入り、交わっていく中で判断し、舵を切ります。

 時に、その舵は正しい理屈から外れることもあるでしょう。それは必要悪です。模範解答ではなく、模範解答になり得ません。正しく論理的に瑕疵のない道筋で事が成就するのならば、これほど楽な世の中はありません。現実は、正しい理屈と必要悪のせめぎ合いです。これらの間のバランスを如何にうまくとって、人を導いていくかが上司たる者の仕事であり、担任の最も大切な仕事かなと思います。浅薄な原理主義ほど始末に負えないものはありません。

 チームすべての人、すなわち担任としてクラスすべての学生達を活かすには、どうしたら良いのか日々試行錯誤です。学生一人一人の顔と名前と性格を把握できていない外野には決して分からないことであり、そこに携わることができ、自らの成長の糧を与えてもらえる私は、幸せなのだと思います。

 水清ければ魚棲まず。

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