前回の続きです。震災後しばらくの間は、みんなで電気通信研究所に集まっては、片付けや買い出しをしていました。週末などの空いた時間は、区役所に行ってボランティア活動をしていました。区役所は大勢のボランティアで溢れかえっていました。
自宅の電気は比較的早く復旧しました。たまたま自宅にいて、コンセントに差しっぱなしだった掃除機が突然動き出してビックリしたものです。ガスもプロパンガスだったので、問題なく。被害は比較的軽い方で幸いでした。
仙台の街を東に迂回するように、国道4号線バイパスが通っています。前回述べた東二番丁通りが旧4号線です。バイパスのすぐ東脇に、「浪分神社」という小さな神社があります。「江戸時代初期に起こった地震津波がここまで来たよ」という印として建てられたものだそうです。つまり、「子孫の皆さん、ここから東は危ないよ」ということです。
しかしながら時は流れて、開発はいつの間にやら海岸線にまで達していました。
4号線バイパスから更に東に進むと、仙台東部道路という都市高速道路の盛土があります。仙台の街を中国の都市城壁さながらに包む込むような都市高速道路網の東側です。そこを抜けて進んだ先がようやく太平洋岸です。震災の時はこの東部道路が防波堤の役割を果たし、西側への津波被害が抑えられました。甚大な被害となった東部道路より東はしばらくの間立入禁止で、ボランティア活動もできませんでした。
2ヶ月くらい経ってからだったでしょうか、東部道路の先への許可が出て、ボランティアで泥かきに行きました。周囲の田んぼには車が突っ込んでいました。家の中まで押し寄せた泥をひたすら掻き出しました。
破傷風の危険があるということで、全身レインコートと長靴の完全防備指示でした。破傷風と狂犬病は、未だに人類が克服できない病気ですね。時は初夏、作業が進んでいくと、暑さで意識が飛びそうになりました。
そのうち大学の方も復旧してきて業務が再開し、ボランティアからは自然と足が遠のきました。電気通信研究所のある片平キャンパスは地盤が良いらしく、部屋の中はともかく、建物に大きな被害はありませんでした。
一番危険と見なされたのは、青葉山キャンパスの工学部建築棟でした・・・。
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