先例と教育

 世の中には、先例を持ち出して進捗を止めようとする人がいます。厳しく言いますと、個人的には、世の中で一番嫌いな人の類です。

 その理由としてまず第一に、根拠がないからです。先例が正しいという証明は不可能です。もし正しいならば、こんなに現代技術が進んだ世の中では天災はなくなっているはずです。過去の通りに現在が進む保証はどこにもありません。

 第二に、卑怯だからです。他を隠れ蓑にして言い訳する人は嫌いです。自身の言葉で言うべきです。主張するならば、叩かれ批判されることは覚悟すべきです。

 しかしそう言う人、自身に火の粉が降りかかったら、先例を平気で破ります。分かりやすいのは、給料の変動ですね。もし先例(前例)のないベースアップがあったとしたら、その人はどう対応するのでしょうかね?

 先例とは、伝統と表裏一体です。「朕が新儀は未来の先例たるべし」と、何でもかんでも年月を積み重ねた伝統を破ることが正しいとは思いません。要は、バランスです。しかしそのバランスを取るためには、よくよく学んで考えておかねばなりません。伝統を維持するのも変えるのも、よくよく考えることが肝要です。

 教育とは、人に成長を促すことです。成長とは、先例を破ることです。

 教育とは、型を作るところから始まります。教科書から先例を学びます。だからといって、先例を墨守しろと言っているわけではありません。

 型があるから、破れるのです。型破りです。型がなければ、形無しです。どちらが魅力的でしょうか。

 授業内容が何の役に立つのかと憤る学生が絶えることはありません。勉強せず、結果として成績が悪かったことへの責任転嫁なのは言うまでもありません。型を作れないものに、型を破る、すなわち未来の創造は決してできません。不平不満に終始するだけの人生となるだけです。

 日本独自の高専制度ができて、まだたったの60年です。60年前、先例のない状況からこの制度を作り上げた諸先輩方に多大なる敬意を表するものです。よく作り上げたなと甚だ感心するものです。全くの創造の産物であり、60年しか歴史のない高専の中で、もし先例を声高に言う人がいたとしたら、その人はセンスなさ過ぎかと思います。

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