倹約と殖産

 コロナや世情不安定の只今は、日常のコストにも影を落としています。最もわかりやすいのは、電気代ですね。節制が求められる時世です。ただし、よく考えなければなりません。

 節制とは短絡的に、「清貧」というイメージに繋がります。自らを制することは、一般に良い印象を持たれます。でも果たして、それだけで良いのでしょうか?

 入る、すなわち収入の確保が必要です。けれども、稼ぐということは、儒教的には良いイメージを持たれません。士農工商という言葉にあるとおり、商は最下層ですから。

 とは言っても歴史を紐解いてみると、節制、質素倹約だけで世の中が治まった事例はありません。仁徳天皇の竈の煙のような神話の時代は別として。史上有名な上杉鷹山の改革でも、質素倹約とペアで殖産興業が奨励されています。後者は前者に比べて評価が疎かにされがちですけど。一方で松平定信の寛政の改革は、質素倹約のみを強いて、結局失敗に終わっています。

 質素倹約って、実は評価しづらいです。感情が入りますから。それが故、容易に行った気になったりできます。「ワタシ、倹約してるから素晴らしいわ!!」みたいな、自己陶酔に陥りやすいです。

 一方で稼ぐということは、評価しやすいです。金額がハッキリ出ますから。それが故、困難です。困難な上に評価が分かりやすいので、やっかみも起きやすいです。

 こういうときに、倹約エクスタシーな人が、酔いしれた空理空論を振りかざすことを鬱陶しく感じます。「ご大層にしゃべる前に稼げよ」と。

 こういうときこそ、研究を前に進めて、研究費を稼ぎます。「間接経費」ってやつですね。

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