経済と衰亡史

 読書の閉講期、長沼伸一郎氏の「現代経済学の直感的方法」を読破しました。氏の著書を知る人は多いと思いますが、特にこの本は抜けて面白く、夢中で読みました。特に最後の9章は歴史に残る白眉だと思います。

 いつの頃からか、生涯学習テーマの一つとして、「組織の衰亡」を志しました。人間は社会的動物である以上、必ず何らかの組織に属します。大きいところから、国家、職場 & 学校、地域、家族の順です。人生に貴族的余裕があれば、是非とも師を得て学びたいなぁと思うところです。

 どの組織にも興隆期と衰亡期があり、永遠の組織は史上かつて存在したことはありません。特に後者がなぜ生じるのかを知りたくて、衰亡史を志しました。国家で言えば、古くはローマ帝国、近代では大英帝国です。また中国では、大王朝の盛衰が繰り返されてきました。漢、唐、清などの大帝国がなぜ衰退し滅びたか。なぜこのようなことが起きるのか? 誰しも好き好んで、自らの属する組織を衰退させたいとは思うはずがありません。ギボン氏(ローマ帝国衰亡史)、高坂正堯氏(文明が衰亡するとき)、中西輝政氏(大英帝国衰亡史)などを手元に置きましたが、非才がゆえ、もやもやとした感覚のままでした。

 ところが、冒頭の長沼氏の著書を読んで氷解しました。キーワードは「縮退」。なるほどね。効率化という短期的願望(欲望)のために、我々は古人の叡智を破壊しているようです。

 以前、江戸時代の経済政策において荻原重秀や田沼意次の評価が低いのはなぜだという疑問を呈しました。金融の話をして、結局はケインズ的な投資政策を支持しました。

 しかし一方で、それは資本主義社会の回転速度を速めることであり、行き着く先はどうなんだろうという一抹の不安、スピードへの恐怖がありました。企業人時代、売上向上と会社規模拡大が至上命題でした。当たり前と言えば当たり前なことなのですが、そのゴール設定にもやもやした気持ちがありました。

 お金は、化学的視点からすれば、社会という溶液の中の不均一(固体)触媒粒子に例えられると思います。お金を介して孤立した物質と人とが経済という化学反応を起こし、豊かな物質文明という化合物が生じます。しかし触媒粒子は次第に凝集して、その働きは鈍くなります。そのため、都度粒子を添加(投資)し、経済活性を維持させます。

 ただし凝集粒子は、不可逆なゴミとして溜まり続けます。結局、経済を加速して豊かな物質文明になったとしても、ゴミの中では人は真の豊かさを得られないのではないでしょうか? つまり、長沼氏の言葉を借りれば、我々は縮退の中にいるということです。

 その観点から考えると、江戸時代、荻原や田沼の対極にあった、新井白石、徳川吉宗、松平定信、水野忠邦の緊縮政策は、持続可能な可逆的社会、すなわち真に(精神的に)豊かな社会を後世に残すために役立ったのでしょう。

 豊かな物質と情報通信に支えられた現代は、何でも手に入る時代です。しかし、真の豊かさとその母体となる強い組織は存在しているのでしょうか。

 冒頭の書により、一山越えることができました。ただし、まだまだ学ぶことはあります。考察を更に深めていき、「組織とは如何にあるべきか?」について、自分なりの解を得たいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA