ここ最近、「量より先に質は来ない」という類のルネサンスがよく目に留まります。
今の世の中、SNSが全盛で、誰とでも電脳空間上において、その人の雰囲気や匂いを感じることなく気軽に付き合えます。ネット検索すれば、生成AIを使えば、情報は気軽に手に入ります。
彼らは、義務や忍耐よりも権利を優先する教育を施されてきました。最先端の教育ということで。叱られない教育を施されてきて、個性を何よりも重視されて。コロナ禍が更に追い打ちをかけました。
その結果、他者を責めることだけを学び、耐えることを知らない世代が生まれてきました。しかし一方で、良識ある社会は彼らを拒むようになりました。
未来を憂う人達は、ルネサンス運動をするようになっています。デジタル全盛の昨今においても、教育は決して効率で計ってはならないことを、社会は反省し始めました。
渦中の彼らは、不幸な世代かもしれません。教えられなかった不幸です。しかし全く順調な世代など、歴史上のどこにもありません。
個人的には、人間は教育次第で如何様にでもなるのだなと、改めて教育の重要性を学びました。
そんなご時世、研究室では手作りの装置を使っています。他研究室の子から、「研究テーマは決めないの?」と聞かれました。いやまずは、装置を一人で取り扱えるようになってからです。
手作りの装置なので、各パーツの動作、装置全体としての流れを理解しないと動きません。ボタン一つでは動きません。安全装置もありませんので、下手な操作をすると壊れます。
マニュアルは、敢えて作っていません。入用ならば、自分の実験ノートに作って下さいと。マニュアルを作れば、ただマニュアルに甘え、マニュアルに責任転嫁する人間が生まれるだけです。
研究室は、実験第一をモットーとしています。物事は基本、身体で覚えるしかありません。実験において、自然と身体が動くようになれば、他の装置や実験にも応用が利き、いざというときにも柔軟に対応できます。鍛えられた脳内で、学んできた点と点が新たに有機的に結びつき、創造が生まれます。ボタンを押すだけなら、小学生でもできます。
スポーツが最も良い例です。練習すれば失敗も挫折も経験しますが、練習しなければ上手くなりません。
練習もしないのに研究テーマを与えても、それに甘えるだけ。甘えに甘えを重ねるだけです。使えない人間の大量生産です。
失敗から、課題が生まれてきます。その自然発生的な課題から、人は学びます。世の中の最大の矛盾ですが、人は、失敗や敗北から最も多くを学びます。
座学の講義というものは、時間の都合上、成功事例を圧縮したものです。人類が何千年もの年月をかけて試行錯誤を繰り返しながら積み上げたものが、たった数百ページの教科書にまとめられています。講義は、基本的には教科書に沿って話するだけです。そんな時間が限られたものだけで世の中の森羅万象が理解できるのならば、人間はとうの昔に神を超えています。
成功事例の塊である教科書を読んで、分からないのは普通です。人類の真の歩みとは異なるからです。人間は、二足歩行して両手が自由に使えるようになってから、その歴史を紡いできました。何千年経とうとも、人間は人間のままです。空が飛べるように羽は生えてきていません。
そう、理解のためには、できるようになるためには、まずは量です。手を動かし、身体を動かすことです。経験し、課題を自ら得て、それを克服していくことです。こうして一段一段登っていければ、新たな地平線が見えてきます。
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