教材と研究

 教材は全てオリジナルで作っています。教科書は一応指定していますが、これは主に最終確認と自習用です。最終確認というのは、私自身が誤って理解していないかを確認することです。自習用とは学生さんので、私の伝達法だけでは理解が偏ってしまうかなと恐れるからです。高等教育は高度な分、教授法も千差万別です。

 初等教育、たとえば1 + 1 = 2というのは、誰が教えても大差ないと思います。しかし高等教育となり、内容も高度になってくると、上述のように教授法は千差万別ですから、教える側の力量が効いてきます。何を教えるかよりも、「誰が教えるか」です。

 力量がないと、教科書の字面だけを追って授業することになります。教科書というのは、人類が長年に渡って積み重ねてきた知見をコンパクトにまとめたものです。人類は成功よりも失敗を多く積み重ね、その失敗を都度乗り越えてきたことで、現代の高度文明があります。

 教科書は、失敗をほとんどカットして、成功事例のみを集めたものです。皮肉な話ですが、基本的にそれだけを読んで真に理解できるようにはできていません。失敗せずして成功することなんてないのですから。失敗事例まで組み込んでしまうと、分野によっては、教科書の厚さは富士山よりも高くなるかもしれません。

 では高等教育を教える側、つまり私なんかは失敗という経験をどこでするかというと、研究活動です。研究活動で悩んだり失敗したりし、その知識を自分の血肉にしていきます。

 「教育と研究は車の両輪」とは常々掲げていますが、これは以上のことにも当てはまります。血肉にする苦労をしていない者の教科書の字面を追うだけしかない授業は、正に血の通わないものです。

 研究とは、言い換えれば、自己研鑽です。研とは違って誰にも強制されませんが、しない人としてきた人の実力差は明々白々です。

 確かに、教科書の内容全てを経験している人はまずいません。しかし研究に精力してきたのなら、同じ自然科学、近しい分野の感覚は何となく分かるものです。近い経験分野の引き出しを開いて、その経験を教材に織り込む。こうすることで、活きた授業ができるのだと思います。

 教材をオリジナルにまとめることはしんどいですし、教科書だけを追うことは簡単です。しかし後者のやり方では、教える側も教わる側もどちらも何も理解できないまま終わるでしょう。

 そう、教授するという行為は、自分のためにもなるのです。

 そんなわけで毎週末は、教材作成に大体徹夜です。

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