MMTと人新世と真の豊かさ

 春休みの読書、斎藤 幸平先生の「人新世の『資本論』」を読みました。頭の中で長年もやもやしていたことを氷解させることができました。非常な名著だと思います。

 遠回りに感想を述べていきます。

 前職では会社で働いていました。会社の目標と言えば、取りも直さず、「利益を上げること」です。利益を上げて、共に働く仲間達と生活を豊かにしていくことです。一見、至極当然のことだと思いますが、心の中はもやもやし続けていました。それは、「どこまで行ったら、我々は豊かになるのか?」ということです。

 通貨、すなわちお金は、触媒です。お金を通して人や物が行き交うことで、付加価値が生まれ、社会は豊かになっていきます。

 貨幣経済の原則に従えば、「誰かの利益は、他の誰かの借金」です。なぜなら、市中に出回る通貨の量は一定ですから。

 これを基盤とした現代貨幣理論(Modern Money Theory, MMT)では、通貨発行権者、すなわち政府が市井・市場により多くの通貨を投入することで、経済は活性化すると考えます。MMT支持者は、特に日本政府はほぼ自分で自分(※厳密には日本銀行に対して)に借金をしているだけなので、MMTは、インフレーションを招かない範囲においては、経済活性化に有効な政策だと考えています。

 とはいえ今現在、我々は既に非常に便利で豊かなプライベートを享受しています。例えば、クリック一つで商品が手元に届きます。しかしながら、その引き換えに、過労死も厭わない過酷な労働をしています。運送業者さんだけでなく、自分自身も。

 昔は、+1の豊かさを得るために、-1の労働をすれば良かったと思います。禍福はあざなえる縄の如し。しかし現在は、+10の過剰な豊かさを得るために、-10の過酷な労働をしています。過酷な労働は、人間の限界を超えてしまいます。豊かさとは、一体何でしょうか?

 資源は、一方通行です。エントロピー増大の法則に従い、集中状態から分散していきます。我々は、資源を消費し、ばら撒いていくことで、豊かになっています。かつ我々は、不幸なマクスウェルの悪魔です。清潔な部屋を作る一方で、産廃の山を作ります。熱力学の基礎理論のように、巨大な熱源があれば、つまり太陽のような無尽蔵の資源があれば、我々は豊かになり続けていくことができるかもしれません。しかし、失われた資源は戻っては来ません。少なくとも手に届く範囲の時間スケールでは。

 MMTを実践すると、豊かさを得る代わりに、生物の住めない将来がもたらされるかもしれません。正に、地球自身の免疫反応が如く。MMTの考え方は嫌いではありませんが、インフレなどの資本主義の範疇での懸念よりも、豊かさの飽くなき追求に一抹の不安を覚えます。「健康のためなら、死んでもいい」みたいな。

 さてさて長く遠回りしましたが、前掲著書では、経済成長を止めて、共同体の復活と真の循環型社会の形成を、マルキシズムの視点から論じられています。マルキシズム、現世の資本主義社会では忌み嫌われている用語ですね。でもそれは、本当にNGなのでしょうか? ページをめくりながら、研究者の端くれとしては、表面的に無価値のものに有価値を見い出すことに、ある種の興奮を覚えます。

 徒に長くなりました。この界隈を深めながら、自身の歩みべき考えをまとめていきたいと思います。あらゆる読書に共通することですが、「そして私は、どうあるべきか?」と。 

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