講義と演習と評価

 講義をしていると、「問題演習がない」という意見を受けました。ふむむ、そういう見方もあったかと。意見はWelcomeです。ちょっと考えてみたいと思います。

 確かに小学校から、(説明)講義と(問題)演習は不可分なものでした。「さあ、それでは問題を解いてみましょう」と。

 学齢が上がるにつれて、両者は次第に分離していきます。大学になると完全に分離します。普通高校から大学へは、大学受験という明確な分け目があります。他方、中学校卒業から5年間シームレスに繋がっていく高専では、同等の教育課程ながら、その明確な分け目がありません。

 では、なぜ分離していくのか? 理由の一つとしては、「時間が足りない」ということがあります。「え゛、これ以上どうするの?」って。わかります。高専生の皆さんは大変ですよね。ハードなカリキュラムをこなしていることに日々感心してます。

 学習内容が高度になるにつれて、講義説明だけで時間を要し、また問題を解くにも時間を要します。とても時間が足りません。それに、問題を解かせている間って、退屈なんですよね・・・すいません。眉間に冴える三日月形!!

 もう少し深く考えてみましょう。世の中では、有形無形の課題を解決していくことで社会が成立し、個々人がそれから評価報酬を得て生活でき、そして社会は回っていきます。模範解答なんてありませんから、「基礎学力」がものを言います。そこに点数評価はなく、絶対的な価値観もありません。価値は押し並べて相対的なものです。

 そのため授業では、基礎説明を徹底するようにしています。自ずと問題演習の時間が削られます。ひたすら問題を解きまくったり、模範解答を丸暗記するのは、資格試験・入試には有効でしょう。しかし、試験の後はどうします? ま、受かるための勉強がまず要るんですけどね・・・。

 そう結局人間は、相対的価値観には本能的不安を覚えるようです。社会的動物であるためと思います。順位・ランキング・偏差値・得点・ナントカ賞が、主にマスメディアを通して、世間に絶えることはありません。安心な拠り所として。

 特に日本社会においては、古来農耕社会であった故か、狩猟民族性に繋がる学校や資格を通じて何を学び得て成してきたかよりも、どの学校の入学試験に受かり、どの資格試験に受かったかという所属の保証が評価対象とされがちです。

 このような数値による評価は、最も公正と「言い訳できる」制度です。

 学校という組織制度では、運営上、試験評価を導入することは避け難いことです。改善には知恵を絞ってく必要があります。しかし学生の皆さんには、点数に囚われて最も大事なものを忘れないようにして欲しいなぁと思います。都合良い言い方なのですが。

 つまり、「どう学び、それをどう人生に活かすか」を。

 高学年になってくると、自由の幅が効いてきます。卒研しかり、選択科目しかり。次第に絶対的価値観がなくなってきます。ましてや、グローバルな現代社会です。価値観は多様です。

 しかし、世の中で確かなことはあります。「成功するには、如何に自由に耐えられるか」、ということです。

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