研究をするということ

 有明高専では4年生後期から1年半の間、卒業研究を行います。研究とは、それまでに行っていた座学とも学生実験とも違うものです。そもそも、「研究」って何でしょうか? 考えてみましょう。

 私は博士であり、プロの研究者であります。そもそも、私がなぜこの道を志したのから始めましょう。

 ちょっと比較年齢が上になりますが、私のいた大学の学科では、ほぼ100%がそのまま大学院進学でした。私も当然のように大学院の博士前期課程、すなわち修士課程へそのまま進学しました。2年後、それなりに知識もついてきたので、もっと先の世界を見てみようと、博士後期課程(博士課程)への更なる進学を決めました。心機一転して研究室も変えてみました。そのままの進学では心に甘えが生じて成長しないだろうし、恩師を超えることは決してできないだろうと、敢えて茨の道を歩むことにしました。

 とはいえ、進学はしたものの、心の奥底のモチベーションを確定できないでいました。そう、「何のために行動するか」。そんな新年度初頭、行先の恩師から、「学問を通じて、人格を向上させる」旨のお話を伺いました。「なるほど、これだ」と。これを心の軸にし、自分なりに咀嚼して、現在までやって来ました。というより、これで無事今日まで生かされてきました。

 研究というものは、神さまとの真剣勝負です。自分がどんなに考え、やり抜いたとしても、実験事実という神さまの回答の前には無力です。

 恩師からは、「研究者は、検察・弁護士・裁判官の一人三役が必要だ」とも教えられました。ひたすら客観に徹して実験を行い、考え、判断します。得られた実験データに対して、それは神さまが何を自分に伝えようとしているのかを必死に考えます。Aという考察に対して、Bという異なる考察を自分で提示し、闘わせ、判断します。しかし神さまは、正解を決して教えてはくれません。回答と正解は違います。研究者は皆、正解に近いと思われることを必死に考えていきます。実験結果はスタートです。決してゴールではありません。スタート後、ひたすら考えることで、見えなかったものが見えてきます。

 人は、恐れるものがないと驕ります。況んや、周りを囲む学生さん達に対して権力のある教職たるものです。人は、恐れを抱くことでこそ身を律することができる弱い存在です。私は研究活動を通じて、己を見つめ直します。そう、教育と研究は車の両輪です。

 研究とは、形のないものです。ペーパーテストのような点数評価などできるものではありません。それが良いか悪いかは、結局は自分自身に問いかける他はありません。形のないものを捉える心の強さが必要です。

 俯瞰してみると、あらゆる物事の始まりは、単なる知的好奇心かもしれません。しかしそれだけでは、先人から受け継いだ有形無形の財産を一人で食い潰すだけです。

 こんな話、準学士課程の高専生にはまだ早い? いえいえ、そんなことはありません。己の核を持たずに漫然と行うことほど、意味のない作業はありません。最近流行の言葉で言えば、「bullshit job」です。

 研究室の扉を叩いた学生さん達には、研究活動を利用して、じっくり物事を考えて欲しいなと思います。成果は後からついてきます。若い時分に、そのような自分を考える時間、心理社会的モラトリアム、は絶対に必要です。

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