年功序列 de Part II: 院政と律令制と武家政権樹立

 続きのお話ということで。

 日本の政治システムの歴史を語る上で欠かせないものの一つに、平安末期の「院政」があります。天皇の上にそれを退いた上皇、上皇の上にそれを退いた法皇です。本来の律令制度では天皇が頂点なのに、その上にまだいる。日本の政治の不思議なところは、ま、現代にも通じるのですが、根本の法律つまり律令や憲法を変更するのには激しい抵抗を示すけど、実質的には骨抜きにされているということです。701年の大宝律令によって確立された日本の律令制度は、723年の三世一身法により早々に運用がおかしくなってきました。743年の墾田永年私財法に至っては、「え、律令では土地は国家所有(公地公民)じゃなかったの?」です。

 墾田永年私財法により貴族や寺院の私領である荘園が増えました。開墾して世の中を豊かにするという観点からは悪いことではないのですが、それが貴族や寺院の大勢力化に繋がりました。藤原摂関家、その藤原氏の氏寺である奈良興福寺、そして都の鬼門に位置する比叡山延暦寺などですね。

 その大勢力化した藤原摂関家に対向するために天皇家が取った政策が、冒頭に述べた院政です。年功序列という日本人の深層心理を上手く利用した政治システムですね。もう律令なんかどこへやら。

 ただこの院政というシステム、実は猛毒でした。正規の政治勢力である天皇に対して、上皇や法皇が立てば、そりゃ互いの勢力間で対立も生じますよね。この権力争いに当時地位の低かった武士で代理戦争させたのが、1156年の保元の乱ですね。これをきっかけに武士の地位が向上し、3年後の平治の乱を経て平清盛による武家政権が成立し、最終的には源頼朝による鎌倉幕府の成立となりました。律令制は疎か、政権そのものがなくなっちゃったよです。頼朝没後の承久の乱でももはや取り返せず、隠岐へいい日旅立ちとなりました。

 その後律令制は、ななんと、明治政府によって廃止されるまで続きました。~守、~卿、~納言なんて役職はもはやただの飾り。日本は平和ですね。

 結局組織というものは、能力十分な現役の役職の人が誇りをもって業務に当たるべきということです。役職を退いた人やOB/OGが発言力を持つような組織は、不健全ということです。

 民主制、共和制、君主制、共産制などの政治形態の違いは、能力十分な人をどのように選び出すかの違いであって、健全な組織運営は本来政治形態に依らないということかと。

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