学生時代はずっと体育会系で過ごしていました。日本の体育会系の特徴と言えば、なんと言っても「年功序列」ですね。私も当時はそれが当然の社会ルールだと思っていました。
農耕民族で平等性を重視する日本社会でリーダーをもめ事なく決めるには、絶対性のある長幼で決めるのが一番でしょうね。祭礼の役員とか。相対性理論によると世の中は四次元空間(x, y, z, t)ですが、人は時間だけは制御できません。テレビ番組の人物紹介でも、名前と年齢はセットですからね。日本人は年齢が大好きですね。確かに、始皇帝が不老不死の薬を探させるために日本列島まで派遣した徐福さんとその仲間達が我々日本人の祖先であるという伝説もあるくらいですから、日本人のDNAには年齢は最重要ファクターであることが刻み込まれているのかもしれません。
さてさて、大学時代のある日のことです。練習後のミーティングで1学年下の後輩に言われました。「1歳違うことってそんなに重要なんですか」と(※共に現役合格入学なので「学年差 = 年齢差」でした。当時はですけど(ノД`))。随分昔のことなので一字一句の記憶は曖昧ですが、光景は脳裏に焼き付いています。その後輩は私を慕ってくれていて日頃から仲が良かったので、臆せずに発言してれました。言いたいことが言えないんじゃダメですよね、とは昔から。まとめる立場でもあった私は考えさせられました。「何をもって人をまとめるべきか」と。長幼が全てかと。年月を経た今でも、それは私にとって人生の課題です。
世界と闘っていかなければならない一般企業では、能力主義が普通です。すなわち、年下の人が上司になったり、親子ほど離れた年上の人が部下になったりします。しかしながら日本は年功序列が深層心理に浸透している社会ですから、無意識の憤懣が蓄積されていく人がいます。歳を経ても地位が得られなった人です。物理的に上の地位ほど枠は狭くなりますから、地位が得られない人をなくすことはできませんが、憤懣を抱えている人は困った存在になり得ます。
深層の年功序列意識に刺すように、その人は若い人達に声を上げて圧迫してきます。自分の地位の無さを、社会や政治の責任にしたりもします。
「いえいえいえ、アナタの地位が無いのは、単にアナタの能力が足りないからですよ」、という単純な理屈をその人は認めることができません。まあ、それがその人の器(器量)の程度なのですけど。
人間は組織的な生き物です。世の中の組織どこでも組織体系図があり、組織がうまく機能して属しているみんなを幸せにできるように、組織的上下関係が定められています。しかし能力が足りず地位が得られず歳を重ねた人は、それを無視して大声で責め立てます。困ったものです。深い思慮のない主張が組織をねじ曲げ、みんなを不幸にします。ただその人の憤懣を満たすためだけに。
そんな人、周りを見渡すと結構いますよね?
もちろん、逆に地位を笠に着たり、あぐらをかいたり人もダメですよ。組織的地位と人間の徳は、残念ながら必ずしも一致しません。
私は、学生さん達を呼び捨てにすることはしていません。会話の中での綾を除いてはね。無礼と思っています。彼らは将来私の上司になるかもしれません。私の幸せを保証してくれるかもしれません(年金払ってくれたりとか)。今は「教える – 教えられる」の関係ですが、近い将来それが逆転しても何も不思議なことではありません。組織的上下関係というものは、流動的なものです。
年長だから臆するのではなく、年下だから横柄になるのではなくです。特に後者です。年下もしくは組織的地位が下の人(部下)への接し方で、その人の器量が分かります。
器量の無い人に、人はついてきませんよね? う~ん、これが冒頭の課題の答えなのかな。
日々海軍五省ですね。
一 至誠に悖るなかりしか ・・・ 真心に反することはなかったか
一 言行に恥づるなかりしか ・・・ 言葉と行いに恥ずかしいところはなかったか
一 気力に欠くるなかりしか ・・・ 気力が欠けてはいなかったか
一 努力に憾みなかりしか ・・・ 努力不足ではなかったか
一 不精に亘るなかりしか ・・・ 不精になってはいなかったか
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