スポーツに思う

 部活動では、とある球技の顧問やっています。顧問といっても第四顧問の丁稚奉公で、そもそも経験がない種目です。ド素人です。何故かこうなりましたが、良い機会ということで、広くスポーツというものについて一考してみたいと思います。

 さて、人間を含む生きとし生けるものには、生存のための闘争本能があります。創造物が過酷な自然環境や限られた空間で生き抜き、種を伝えていくための神さまがつくったROMです。

 闘争本能をうまく利用したのが競争原理であり、適切な競争は切磋琢磨を呼び込み、社会を豊かにします。適切な競争を維持させるために、世の中には不正競争防止法や公正取引委員会という仕組みがあります。

 しかしながら闘争本能は、争いや戦争を生み出す原因にもなり得ます。戦争とは、食物連鎖の頂点に立つ人間の抗えない性なんでしょうか、まだ私にはわかりません。

 ただ人間の大いなる知恵の一つとして、闘争本能を満たすための仕組み、すなわちスポーツというものが生み出されました。スポーツとは、ルールのある争いです。

 狩猟民族的DNAを持つ人達には、スポーツはゲーム感覚です。なぜなら英語では、スポーツもゲームも「play」という動詞を使います。NIKEもNINTENDOも一緒です。

 他方農耕民族では、スポーツは争いの表現方法の一つとなります。攻守激しいゲームを「死闘」などと過激に表現しますね。これらの比較から結局、狩猟民族であろうと農耕民族であろうと、人間の根は一つだなと思えます。

 さらに日本は特徴的です。スポーツが道になり、精神性を求めるものになります。矢当てゲームがアーチェリーではなく弓道になり、剣ゲームがフェンシングではなく剣道になります。

 適度な精神性は、規律と秩序をもたらして社会を安定化させる効能があります。しかし過ぎてしまうと、現実を無視した精神論に走ります。勝利が唯一無二の価値観で、敗北は全てを否定されることになります。近代国内におけるスポーツの発展と戦争が、精神的側面から表裏一体なのは偶然の産物でしょうか?

 「気合いで勝つ」とかいう言葉はありふれたものですが、いやいや、相手にも気合いはありますよ~です。

 半生を回顧すれば、私はガチガチの精神的体育会系でした。それが至上の価値観と思っていました。

 しかしそれは、スポーツ本来のあるべき姿ではないと後悔しています。学生さん達の年頃ではそのことに悩んではいましたが、解決には至りませんでした。本来の姿とは、闘争本能を満たしながらも、「楽しむこと」だと思います。ゲームとして。負けることにも意味はあります。

 学生さん達がボールを追いかける姿を見ながら、スポーツが彼らにとって人生を長く楽しめるツールであって欲しいなと思います。その観点からすれば、今は良い時代ではないでしょうか。

 子曰く、「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。」

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