批判すること、されること

 研究活動をしていく際、多分どうしても避けられないことになると思いますが、批判活動をせざるを得ません。すなわち、「先行研究の○△という点が不足、欠点、ないし間違っている」ということです。

 高校時代にある先生が仰せられたこと、「評論家になるな」という言が、今もっても頭に残っています。批判に終始せず、自らの行動をもって示すことです。

 研究活動で、全く未知のフロンティアを自由に進めることはまずありません。必ず先人の活動があり、それを乗り越える形で自らの路を作ります。

 古人曰く、「巨人の肩の上に立つ」です。

 乗り越える懸命さは、時に批判という活動に繋がります。先人には先人の壁があり、それは時に答えを知っている後世の私達には低く見えるかもしれません。その際には、自分がもし同じ立場だったら乗り越えられたかと、厳しく自省しなければなりません。

 私達は先人より賢いわけではありません。賢いと勘違いするのは、人類が「記録」という大発明をしたからです。スマホをフリックすることと砂地に指で絵を描くことに、何の差異もありません。

 度が過ぎた批判は、それ自体が目的化し、延いては自らを堕落させます。これは何も研究活動だけではなく、日常生活でも当てはまります。

 「あいつはダメだ」、「オマエはダメだ」なんていう人、世の中に結構な数いますよね? 老いも若きも。でも結局、「そういうアナタが一番ダメ」なんですよね。だって、その人は誰も益したり富ませたりさせることがないからです。

 「批判する際は、批判される覚悟をもって、世の中の利益のために適切に行う」という、強い責任感と倫理観が必要だと思います。常々自分に言い聞かせてはいます。自らのためにも。

 そしていつの日か、自らが後生の人に乗り越えられる壁となるのです。

 しかし世の中の電波に乗ってくる情報を見聞きすると、そうでもない人が多いよなと。電気磁気学の授業でも説明しましたが、電波は限りある資源ですよ~と。

 他者を評するのは容易い。研究でも授業でも世の中での活動何でも、自らが先ず困難に挑まねばです。

 古人曰く、「先ず隗より始めよ」です。

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