分権と集権と知

 前回の続きとして、分権と集権について掘り下げてみます。

 地方分権に絡めて、「地方創生」とかという言葉が世に出て久しいです。これって別に、日本史の中では特に珍しいものではありません。

 平安時代の3/4、遣唐使の廃止以後300年間に、現代に至る豊かな国風文化が熟成されていきました。源氏物語とか枕草子とか。これって世界史の観点から見れば、日本は中国から見た地方分権組織です。古代は、功罪いずれにせよ、中国が東洋の中心であったことは疑う余地はありません。

 早々に結論を述べると、中央は治安維持のために必要最低限のガバナンス機能を残して、後は地方に任せることの方が、世の平和には良いのかもしれません。室町幕府は地方分権制だったものの、中央政府が脆弱だったために、豊かな土壌の育成に支障を来しました。北山文化は三代義満の全盛期の限ってのことで、親子の確執か何かは知りませんが、続く四代義持で早々に廃れました。八代義政の東山文化と各地の小京都は、応仁・文明の乱の副作用というもので、たまたまうまく行ったという感じがします。戦国の乱世では、大多数の人はそれどころではないですよね。

 しかしその文化は、続く安土桃山時代で花開きました。堺と茶道文化の繁栄の土台に武器商人ありです。

 さて、時代は大きく下ります。日本史上特に注目すべきは、幕末と思います。戦国時代のチャンバラは、天下統一ゲームとしては面白いですが、歴史的な深みを感じません。実用性の是非は別として、1000年にも及んだ律令制と摂関制の廃止が、幕末のたった20年足らずで達成され、明治新政府が生まれました。前例大好きの日本人のDNAでは考えられないことですよ。以後さらに明治政府は、たった30年程度で列強の仲間入りをしました。同様なフランス革命が引き起こした長い動乱と比較すれば、その期間の短さは世界史の中で特筆します。当時長生きの人にとっては自身一代の内での話であり、当人にこのような明治維新の激変はどのように映ったのでしょうか。下る昭和の高度経済成長を遙かに超えるものです。

 明治維新は、徳川幕藩体制の緩やかな地方分権が、地方の豊かな人材育成を可能にした結果だと思います。上述の結論です。日本各地至る所から溢れんばかりの多士済々が明治の世を作り上げましたが、それは一代の教育で成せるものではないでしょう。Pax Tokugawanaの下、何代にも渡って知が育成されていったのでしょう。

 しかし明治政府による急激な中央集権化は、欧米列強の帝国主義へのやむを得ぬ対策とはいえ、やがて知の歪みを引き起こし、昭和の敗戦という無惨な結末を迎えました。海軍兵学校のハンモックナンバーに代表される知の画一化は、知を劣化させていきました。海軍兵学校といえば戦前は日本で最難関の学校でしたが、そこでの成績だけによる人事・社会評価、つまりハンモックナンバーは知の土壌を枯らせていきました。

 さて現代、多様性の世の中です。教員としては、少なくとも自分の人生の平和のために、老後を支えてくれる学生の皆さんに知の何たるかを伝えるのが大きな課題です。う~ん、なかなか難しいですね。

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