Tag Archives: 教育

都度都度、しあわせ

 これまでの人生を振り返ってみると、都度都度イジワルをされてきました。こちらは何もしていないのに、何故かされる。

 こちらは普通に話しているのに、いきなり発狂して怒鳴り散らすという人にも複数出会いました。目が点になるとは、正にこのことでした。後でどこをどう振り返っても、発狂される理由が分かりません。そんな経験をしたので、持論を振りかざすのではなく、まずは相手の話をよく聞くように努めています。人それぞれに考えがあり、そこから新たに学び得ることもあります。

 学歴のやっかみというのも割とありました。私はそこそこ学歴が良い方のようです。「~ようです」というのは、周囲に同じような人達がたくさんいる環境で育ってきましたので、特に何も感じていませんでした。私にとって学歴とは、人生を豊かにするための手段の一つであり、若い頃の通過点の一つでしかありません。敢えて誇りを持つならば、博士号を持っていることであり、それ以外は「○△の生まれと育ちです」的なふるさと紹介のレベルでしかありません。現在そして未来において成果を出せるか、世の中に価値を提供できるか否かが大事なのです。

 しかし、一般世間ではそうではありませんでした。出身大学/高専を命の次に大切にしている人も世の中にいるのだということを学びました。私にとってはどうでもいいことであっても、そうでない人もいるようです。

 そんなイジワルをされて人生とても困ったことは、一度や二度ではありません。けれども、その都度誰かが助けてくれました。おかげさまで、履歴書は表面的に問題なく彩られています。

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正しい理屈と正しい結果

 正しい理屈と正しい結果を考えてみます。アインシュタインは、「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」と述べました。しかしここでは理科的なことではなく、人について考えてみます。

 教育の最終目標は言うまでもなく、人を育み活かすことです。時に厳しく、特に優しく。机上で決めた決まり事で万事うまく行くとは限りません。

 成績の善し悪しだけで人の成長を評価することはできません。一方、成績評価がなくては、大きなチームほどまとまりません。皮肉なものです。人がチームを作れば、1番から最下位までランキングされます。成績至上主義では、最下位はすべての権利を奪われます。そして自ずとチームは崩れていきます。競争原理ですべてがまとまるならば、世の中は平和です。

 正しい理屈は、いくらでも簡単に創ることができます。単純な論理を単純に積み重ねるだけで良いからです。ただし、それが正しい結果を生むとは限りません。その正しい理屈を考え出した人ならともかく、表層的な理解が正しい結果を導く可能性は低くなります。正しさは、時と共に蝕まれていきます。

 無論、評価は厳正に行わなければなりません。物事の核を疎かにしては、基本を疎かにしては、そもそも物事自体が成立しません。しかしながらそれ以後の運用は、その人達の輪の中に入り、交わっていく中で判断し、舵を切ります。

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十で神童、十五で才子・・・

 有名なことわざに、「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば只の人」というものがあります。この意味を、高専教育という観点から考えてみます。

 高専での卒業研究は大学と違って、授業科目の一つとされています。つまり、時間制限があります。高専の教務管理システムは出欠に厳しいので、大学のような研究室での自由な研究スタイルは馴染みにくいこともあるでしょう。しかしながら研究というものは当然のことながら、時間制限下で行われるものではないので、科目の一つという捉え方は必然的に無理を生じます。

 高専の当初の設立理念である「高度成長期の中級技術者の育成」という観点に立ってみれば、卒業研究を授業の一つとする方針は理に叶っていると思います。研究を深く追求するわけではないけれど、かといってしないわけでもない。研究とはどういうものかを体験するだけだったら、目的は達せられると思います。大学では、学士号を参加賞、修士号を努力賞、そして博士号で一人前という考えがあります。本科卒となる学士(専攻科卒)以前の准学士だったら、体験賞になってしまうのでしょうか。

 けれども現在においては、高専への社会的要望はより高度化しています。そもそも高度成長なるものはとうの昔に終焉しましたから、今はより深い専門性と広範な知識、そして創造性が高専にも求められています。加えて保護者・学生側としても進学熱が高くなっていることから、もはや大学との差別化、棲み分けが曖昧になっています。

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英語ってどうよ?

 イギリスで政権交代が短期間に続きました。新しい首相ですが、元よりこの方がなるだろうなーと以前よりNHKニュースを見て思っていました。でもあれれ別の方になり私の予想は外れたかーと残念に思っていたら、その施政方針も遠く日本ではあまり聞かないまま、結局この方になりました。当たりと言って良いのかな?

 新首相の演説をニュースで聞きましたけど、やはりイギリス英語は日本人にとって聞き取りやすいです。

 イギリス英語とは、屋上屋の変な言葉ですね。日本日本語みたいな。と言いますのも、英語教育の主流はアメリカ英語、すなわちアメリカ合衆国で使われている英語となっています。綴りはアメリカ英語の方が合理的な感(centreとcenterなど)がありますが、発音は低くて聞き取りにくいです。

 歴史を紐解けば明治維新の志士たちは、伊藤博文のように英語が堪能だったそうです。その当時の英語は、日本人に聞き取りやすいイギリス英語ではなかったのかなーと思ったりします。当時はまだ大英帝国の時代でしたし。

 さて現代の私、今年度は国際交流室というところにも所属していて、学内での英語の講演会のお世話などをしています。有明高専ではグローバルエンジニア育成事業というものを行っておりまして、国際社会に対応できる人材の育成を行っています。先日は講演会の司会も行いました。

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専門家ってどうよ?

 校内にいると、たまにではありますが、「ワタシの専門は○○だから~云々」という声が聞こえてきます。誠に残念至極です。

 5年と時間制限が厳しい高専時代に教えられる専門学問は、わずかです。高々片手で数えられる年月決められた専門カリキュラムをこなしたからって、専門家気取りをするのは、ただでさえ狭い知識をより狭くするだけでしかありません。気取るメリットは、ゼロです。

 昔、ある泊まり込みの学会に行ったときの夜、車座で団らんして話を聞いていると、ある大学の教授が仰せになりました。「それで10年飯を食ってから、専門家と言うべきだ」と。けだし至言でした。

 実のところ私自身、未だに何が専門なのかがよく分かっていません。化学・物理・電気の世界を渡り歩き、それぞれそこそこできるのですが、これといって絶対的に胸を張れるものはありません。確かに論文では持論を主張してはいますが、ふとこれで良かったのだろうかと眠れないこと度々です。TVのインタビューやコメントで専門家の先生方が述べられますが、私にはとても真似できません。そんなようでは、専門家として言うのも恥ずかしいですね。

 色々考えを巡らせていると、どんどん分からないことが湧いてきます。研究は深く追求するほど、分からなくなってきます。分からないことがあると、専門家ではないですよね。それとも、分からないことが分かっているから専門家なのかな。う~ん。

 専門家と言える人が羨ましいです。

選択科目ってどうよ?

 選択科目っていうのは本来、Challengingな科目であるべきと思っています。そのココロはと言いますと、

  1. 細かい専門分野の科目
  2. 内容が高度な科目

という具合です。

 1については、高学年になって研究室所属になったりすると、個々の専門性が深くなります。深い専門学問はその分野には大切であっても、他分野や他の研究室にとっては重要性が低かったり、意味が分からないものだったりします。例えば、プログラミングの人達にプラズマはあまり必要ないかなと。

 そんな分野は第一に各研究室で教えれば良いのですが、複数研究室に関係したりすると、選択科目として用意しておいた方が効率的だったりします。

 2については、残念ながら学生間で学力に差があることが原因です。特に若い内から専門分化しなければならない高専では、学年が上がるにつれて、ついていくのがしんどい学生さんが出てきたりします。できる子をとことん伸ばすか、それともできない子を手厚くサポートするかは、永遠の課題です。どちらに偏っても、他方からは不満が漏れます。

 その解決法の一つに、高度な科目を選択とすることがあります。例えば、担当している電気磁気学(電磁気学)の場合、特殊相対性理論をもって電磁気学の完結とするべきと思っていますが、そこまで必修で引っ張ると、撃沈する子が後を絶たなくなってきます。というわけで現在は、興味ある学生さん達を対象に課外で数回行っています。単位には何も関係しませんが、興味津々な学生さんはいます。

 他に量子力学や固体物理学なども同様です。必要なんだけど、必修とするには難しすぎますね。こちらは課外で用意する余裕がないので、研究室で必要な分をぼちぼち教えていくことにしています。

卒業単位数と選択科目

 どこの大学・高専もそうだと思いますが、卒業単位数すなわち卒業に必要な単位数に対して、開講科目は多めに設定されています。そしてその余分な科目は選択科目となっており、取らなくてもほぼ卒業には影響しなくなっています。

 卒業単位数獲得の目処が立てば、選択科目を受けずに時間割を楽にして、最後の学生生活を楽しむという人が割と出てきます。楽しむといっても、バイトしまくったり、ゆっくり寝たりが多いようですが。まあ、個人の自由ですけどね。

 私は、科目の選択は「個人責任」という心づもりでいます。取っても取らなくても個人の自由で、それに伴う以後の責任さえ自分で取ってくれれば、それで構いません。就職/進学したら、「その科目を取っていないことが問題になった・・・」なーんてことがあっても、一切の自己責任でお願いしますよです。そのときになって押しかけてこられても迷惑千万で、後輩達への教育の邪魔でしかありません。貴君中心に地球は回っていません。「権利の行使には、責任が伴います」ってことさえ肝に銘じておいてくれたらOK。

 個人的には、高専は若い内から専門に特化しているので、特に他分野の選択開講科目は取って欲しいと思うところです。他校はよく知りませんが、有明高専は専門コースにいても結構他分野が学べますので。

 専門に特化しているので高専卒は即戦力にはなるでしょうが、「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」とも言います。若い内は広く学び、世の中の広さを知ることが大事だと思います。Liberal Artsという言葉にあるように、欧米では専門分化を日本よりも大分遅らせますね。20代30代の責任が比較的問われない若い内は結構ですが、それ以上の年齢になり、判断・決断・責任が問われる立場になると、広く学んでいるか否か、すなわち教養があるかないかが、かなり効いてきます。決断は一瞬のことですが、それに至るまでには考えに考える必要があります。知識・教養がなくては、そもそも考えることができません。

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車の両輪

 大学は研究と教員の機関です。しかしながら大学教員の中には、教育を疎かにしている人達が残念ながら一定数います。企業からの天下り先としか考えていない人もいます。一部の企業では研究職には役職定年があり、研究を続けたいがために大学へ転職する人がいます。教育なんて二の次です。

 一方、高専は教育と研究の機関です。同じ高等教育機関ではありますが、制度上順番が逆になっています。しかしながら高専教員の中には、研究を疎かにしている人達が残念ながら一定数います。

 大学では卒業研究は生活の一部であり、朝から晩まで研究室で過ごします。一方高専では授業科目の一つの扱いです。しかしながら実験研究が決まった時間内に終わることはまずないので、事実上は大学とあまり変わらなくなります。

 高専では、卒業研究を大学並みに頑張る学生さんもいますが、自習時間のように過ごす人もいます。後者は卒業研究の意味、ひいては高等教育の意味を理解していないと思われるので、手の届く範囲でその意義を説いています。

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2022年度学校要覧と2023年度学校案内

 2022年度の学校要覧2023年度の学校案内がアップロードされていました。

 学校要覧では、表紙の右下に鷹林研究室が写っています。昨年は、ホームページのトップスクロールのコース紹介に導波管とスミスチャートで写っていましたが、今年は打って変わってプラズマCVD装置です。下から2行目の左端は、我が4Eクラスですね。英語してます。

 学校案内では、表紙見開き下の写真も我が4Eクラスです。同じ英語授業の別写真ですね。2頁目のコース紹介の写真も同じく我が研究室の別写真です。

 しかし学校案内での4E写真の背景黒板、端に書いている内容がね・・・。私の字なんですが。我が校関係者ならば、お分かりですね。

よろしくです。

定山渓に来て知性を考える

 本日私は一人、定山渓温泉に来ました。札幌市の南端にある奥座敷です。夕方からまたweb会議ですので、朝から出かけました。

札幌駅バスターミナルを出発です。
バスで80分ほど揺られてやって来ました。交通は至便です。

 学会では、学生さん達には自由行動させています。私も学生時代にそう教えられてきましたし。何を聴講し、何を学ぶか、そしてどのように時間管理するかは、自分自身で決めてもらっています。大枠の目標は示していますから、そこに向けてどう歩んでいくかは彼ら次第です。まあ、その大枠はわりと厳しいようなんですけどね。

 学歴を積んで知的職業に就くことに対して最も必要なことは、やたら難しいことが分かるようになることではありません。テストで良い点を取ることでもありません。また、それらを自慢することでもありません。

 自分自身をコントロールできるようになることです。

 これは残念ながら、今までの人生で高専生(有明に限らず)という者達を見て来て、彼らに最も欠けているものです。

そうだ、一休みしよう。
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高周波伝送と図書館と知的視野

 今年度は4E担任だけではなく、図書館運営室室員も仰せつかっています。有明高専図書館では毎年新しい本を入れるのですが、今年はその選定の担当となりました。

 「学生さん達にとって何が良いかな~」と、Amazonなどをザッピングしながら適切な本を探していると、David M. Pozarの「Microwave Engineering」の邦訳が出ていることを知りました。ちょっと高かったですが、早速手に入れました。原書と邦訳をセットで揃えるのが好きなものでして。論文等を執筆する際には、英語が基本言語ですので原書が必要なのですけれど、日常読むのはやはり日本語の方が早いです。

原書と邦訳、両者揃い踏みです。

 会社員時代、業務の都合で高周波伝送とそのプラズマについて勉強しました。全く未知の分野でしたので、この本と中島 将光先生の「マイクロ波工学」で必死に勉強しました。自分で本を読むだけでは分かりませんので、実務的なことは同僚だった大井 克己さんに都度教えて頂き、学問的なことは橘 邦英先生(京都大学名誉教授)の知遇を得て、進めていくことができました。ただただ、運が良かったです。

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